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人生を変えた一冊の本・・・「データベースシステムの実際」

例えオークションで100万円の値が付くと言われても決して手放さないと決めている本がある。
その中の一冊。自分にとってはドストエフスキイや太宰治の作品よりもランクが上である。
おそらく人生で最も多く読み返した作品だ。その回数たるやたぶん数十回以上・・・

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足繁く通っていた大阪梅田の「紀伊國屋書店」で何気なく手にとってみたこの本が新しい時代の始まりとなった。
とにかく常に持ち歩き、読む度に目からうろこが落ち続け、著者である"酒井俊夫"という名前は神となった。

日経MIX そして「桐」

転職すべきか否かで悩んでいる中で、"dBASEⅡ"は既に"dBASEⅢ"にバージョンアップしており、その圧倒的に進化した使い勝手の良さに感動してすぐさま切り替えていた。大きな声ではいえない理由によって、相変わらず後ろめたい思いを抱えつつ・・・

そして、ついに新天地である「A社」に移り、様々な予想外の事態に困惑と苦労の毎日が始まった。
ただし、新しい職場でシステム関連の予算が自由に使えるようになる事は約束されていたので、いよいよこのバカ高い価格の製品の正規ユーザーになれると希望に胸を膨らませていた。

A社の役員からは、社内外の管理業務の実務に加えて、三和無線で作っていたオモチャのような自己満足アプリケーションではない本格的な基幹業務システムづくりを期待されていた。もちろんゼロから・・・
当時も今も、どこの小規模企業も同じであるが、やはり A社も全ての業務が手書きであり、天井知らずの上り調子であった業績に比例し、その事務作業量たるや入社時に既に三和無線の十倍以上あった。
二名いた女子事務社員は、請求書や給与・買掛金支払い等の締め日には、お決まりの悲惨な残業を嘆いていた。

期待の強力新人は、高給で迎えられたという自負と使命感もあり、希望と懐疑的視線が半ばする先輩社員に対し「残業は三ヶ月か遅くても半年以内になくせるよ」と大見得を切り、システム作りの猛勉強を再開した。もちろんキラーアプリは"dBASEⅢ"になる、はずだった。
"dBASE"関連の参考書は豊富に出回っていたが、本格的な業務システムを手がけるには情報がまったく足りず、周囲に相談や指導を受けられるような存在もなく、内心相当な焦りがあった事も間違いない。
もし成果が出なければ、せっかくの新天地での自分の存在価値が一気に低下してしまうのである。必死だった。
そして、当時隆盛を極めつつあったバソコン通信のひとつであった"日経MIX"に目をつけた。

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"日経MIX"は、"パソコン通信"の場のひとつ。その名の通り日本経済新聞社の主催であった。
"草の根BBS"という呼称に象徴されるように、"掲示板"の数こそ膨大に発生していたが、パソコン通信は文字通りの玉石混交状態。自分にとってはかなり胡散臭く、現在の"ツーちゃんねる"のイメージしかなかった。

そんな中で"日経MIX"は、完全に別格であった。入会者は限定されており、書き込み内容の管理も厳格で、"便所の落書き"的な下らないものに遭遇する心配はなかった。当然ながら入会手続きもちょっと面倒だったが。
しかし逆に云えば、自分のような素人SEにとってはそこで飛び交っている議論の内容がかなりハードルが高く、結局一度も書き込み出来ずじまいであった。

たしか個々の掲示板は"会議室"と呼ばれていて、入会後最初に覗いてみたのは、"dBASE"ではなく"K3/matsu"だった。いきなりデータベース関連の会議室に行ってもおそらく理解出来ないだろうという先入観があったためである。
とりあえずはとっつきやすい分野からと考え、ずっと愛用していたワープロソフト"松"の会議室なら入って行きやすいかもと考えたのである。しかし、そこはやはり「一見さんお断り」の雰囲気に満ち満ちていた。とはいえ、もちろん知性も良識も備えた参加者たちがそんなバカな考えをしていたのではなくて、一介のシロートが気軽に割って入っていくには、やり取りされている内容があまりに高度であると自分自身が勝手に気後れしたのだ。

今から思い返しても、何しろそこにいたのは、管理工学研究所の名物社員であった「k16・show」氏を始めメガソフトの社長であった前坂氏や、今も PCWatch に連載記事を持っている西川和久氏や名前は忘れたが国文学専門の大学教授のような個性的かつ高度な知識を持った面々ばかりなのであった。あ、たしか un_chan もいたな・・・
単なる世間話的な内容であっても、とてもシロートが口を挟めるようなレベルではなかったのである。
少なくとも自分ではそう感じていて、夜な夜な出かけるも、ただただドアの隙間からおっかなびっくりで耳を澄ませているだけというような状態だった。
ところで。当時も今も、会議室に実名で参加する人はごく少数派で、皆それぞれに好き勝手なハンドル名(芸名/ニックネーム)を名乗っていた。中でも一風変わったハンドル名を名乗り、いつもしゃれたセンスが感じられる書き込みをしていた"Rose.C"氏には特に興味を惹かれていた。
その発言内容も他のメンバーに勝るとも劣らないレベルの割に構えたところが微塵もなく、とても分かりやすく、正しく肩の力を抜いたという感じで好感が持てた唯一のメンバーであった。
「こんな人と友達になれたらいいなぁ。でもとても自分にはムリ。」と勝手にびびっていた。

今となってはどうだったか定かではないが、同じく管理工学研究所の製品である「桐」に関する話題もかなり出ていたというおぼろげな記憶もはっきりとある。<-- 「何じゃそれは!?」という実にいい加減な表現だが、まぁそんな感じ。
"K3/kiri"という会議室があったような記憶も残っている。つまり"K3/matu"とは別に存在していたのかも。
要するに、"K3"会議室を覗いているうちに「桐」というちょっと変わった優れたデータベースソフトが管理工学研究所から出ているという事実がどんどん自分の中に浸透していったのである。
ずっと"データベースおたく"状態だったので「桐」の存在はもちろん知っていたが、"Presse"の亜流のようなイメージで、いまひとつ食指が動かないでいたのだ。

慣れとは恐ろしいもの。そうこうしている内に、いっちょ試してみようかという気になり始め、例の方法によって、"桐Ver.2"にトライしてみた。そして驚嘆した。"眼から鱗"などというものではなかった。

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「桐」と管理工学研究所

ゴングが鳴ってわずか数秒後に一発でノックアウト!!
"桐V2"。それは素晴らしいストレートパンチだった。「気絶するほど悩ましい」心地良い敗北感。
これまでの苦労は一体何だったのだ。
"dBASE"で苦心して組み上げていたものがファンクションキーのたった一発。仕上がりのレポートも段違い。
正に発注しようとしていた"dBASEⅢ"をすんでのところで思いとどまり、代わりに"桐V2"正規品をゲット。
カタログに謳われていた「今桐V2を買うと桐V3がもらえます」が止めの必殺パンチとなった。

あっという間もなく"dBASEⅢ"は過去のものになってしまった。何よりもデータベースとしての肝心要の処理速度に天と地以上の差があった。たらたらと動作する"dBASEⅢ"の処理と同じ事が"桐"は何をするにも一瞬で完了。

"dBASEⅢ"で作りかけていたシステムは直ちに古臭い過去のものになり、同じものが"桐V2"では「鼻歌交じりで片手間に」は言い過ぎにしても、余裕を持って楽しみながらつくり上げる事が出来た。
これには"酒井本"の存在が本当に大きかった。今でも感謝してもしきれない。"桐V2"でシステムのプロトタイプを作りながら、"松"の存在もあり、「管理工学研究所」というのはどんなスゴイ会社なのだろうと興味津々となった。
そして、"桐 Ver.3"は更に素晴らしい出来らしい。

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これや。このカタログ。「グレースが主義です」なんて、相変わらずの意味不明なセンス。(;`ー´)o

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しかし、イメージだけではなく「何が出来るのか」がしっかりとアピールされていた優れたカタログでもあった。
日本橋の「J&Pテクノランド」でもらって来たカタログを日夜ながめつつ、ふとした事で「桐Ver.3」発表会が大塚商会主催で行われる事を知り、早速申し込んでいそいそと出かけた。

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大阪梅田のちょっと外れた場所(たしかホテル阪神?)で開催された発表会場は、50人収容程の部屋だったが、多数の立ち見が出るほどの熱気に包まれていた。新バージョンの特長を上手く表現した、中々良く出来たプレゼンテーションだったと記憶している。終了後の質疑応答会でも、真剣で活発な質問が多数出された。

プレゼンターであり、質問の回答者でもあったひょろ長い青年は、数々の質問に飄々とユーモアのセンスもたっぷりで余裕を持って的確に完璧に対応し、まばゆいばかりのオーラを放っていた。
もちろん彼は管理工学研究所の社員だったのだが、その名は一度聞いたら忘れられない「下村円治」氏だった。

「優しさと奥行きの深さ」というカタログの謳い文句の意味が分かった気がした。
その時から管理工学研究所に対する信頼感が確固たるものになった。

スーパーツール「桐」

新天地となった A社では、宣言通り三ヶ月弱で事務系(経理業務)の残業を根絶させる事が出来た。
半信半疑であった先輩事務社員や経営陣の、自分を見る目が明らかに変わり、一目も二目も置かれるようになった。
最初に大風呂敷を広げたものの、内心気が気でなかったが、それを可能にしてくれたのが"桐"との出会いだった。
"dBASEⅢ"では、というより他のどんなソフトウエア製品を使っても出来なかっただろうと今でも思う。
それでは、データベースソフトではなく、"MultiPlan"なら同じ事が出来たかというとそれも「No」。

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入社後しばらくは業務への慣れに要する時間と、"dBASEⅢ"でシステムづくりの準備をしていたという事もあり、実際に"桐"での実務処理に費やした時間としては、二週間もかけていない。それまでは「要件定義」の期間。
何をすべきかが見えてきた時点から、全速力で当面の目標に到達する事が出来たのである。
当時から「高度なデータ処理がワープロ並みのカンタンな操作で可能」などという類の宣伝文句はほぼすべてのデータベース製品が謳っていたが、本当にこれを実現していたのは"桐"だけであった。「これしかない」と確信。
以後、"桐V2"の末期から"桐Ver.5"まで、約8年間という長い期間にわたって"桐"との蜜月が続くことになる。
そして、"桐"との別れも唐突にやって来るのだが、それについてはおいおい綴っていく。

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とはいえ、いくら"桐"の機能が優れているからといって、手品のように素人の身でそんな短期でちゃんとした「システム」が出来上がるはずもない。成功の理由は、必要最小限の作業項目のみを対象とした事であった。
何しろ時間が限られているのだから、聞き取りと観察・業務の分析によって事務作業の中で本当に今すぐ必要な項目のみを絞り込み、「選択と集中」によってコアな部分のみを半自動化したのである。

"半"自動化とは、"桐"を操作するのが自分自身にしか出来ないという状況である。他のユーザー(社員)にも説明なしで使えるような「システム」とするには、やはり多大な努力と時間が必要であろう事は認識していた。

ただ、実際には事務社員は"桐"の基本操作(会話処理)はすぐに覚えてくれたので、後は自動化する部分を少しずつ増やしていけば良いというわけで、余裕を持って業務改善を進める事が出来たのだが、いくら効率が良いとはいえ、やはり"システムづくり"は甘くはない。"一括処理"の習得にも時間がかかる事は覚悟しなければならなかった。
"酒井本"にも、一括処理による業務システム構築までも懇切丁寧な解説があったわけでなく、というか 1冊の単行本にそんな内容を網羅できるはずもなく、それはないものねだりに過ぎない。

他に頼れるものはやはり書店にしかなかった。しかし、"桐"を扱った市販の参考書籍はいくつか出ていたが、お決まりの内容の入門書レベルのものばかりでかえってストレスが溜まるばかりであった。
そんな中、自分にとっても生涯忘れられない、今はなき「エーアイ出版」の月刊誌であった「98magazine」だけが唯一例外的に実用的な解説シリーズを掲載してくれていて使いこなしのヒントも少なからず得る事が出来た。

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ただし、やはり自ずと不特定多数の読者を想定したものであり、自分の懸案事項に関してタイムリーに役立つというには程遠い内容である事に変わりはなかった。
情報を渇望しつつあったその頃、富士通が主催者である"Nifty-Serve"の存在を知った。調べてみると、何と"桐"の会議室があるらしい事が分かった。(゚∀゚)

FAPPLI

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1992年7月。
パソコン通信最大手であった「ニフティサーブ」のフォーラム(※)のひとつであった"FAPPLI"内に
"【虫食いなし?】「桐」専用たんす"
と名乗る電子会議室を発見し、そそくさとのぞいてみた。
ちょうど出来たばかりで"日経MIX"とはまったく異なる、今風の表現でいえば「ゆる~い」雰囲気であり、一安心。
「これなら気兼ねなく入っていけるな。」と安心したが、最初のうちは開設祝いのメッセージばかりで埋め尽くされていて、しかもどうも他所からのかけもちメンバーで占められていて、「最初から馴れ合いかよ。」と何となくイヤな気がし、肝心な「桐の情報交換」が中々始まらない事もあり、しばらく様子見の日々が続いた。

当時はNEC主催の「PC-VAN」が一般向けパソコン通信媒体として有名であったが、"PC-9801"に囲い込まれている状態に徐々に疑問と不満が生まれつつあった事もあり、迷いなく「ニフティサーブ」を選択した。
「ニフティサーブ」は有料であるし、"シスオペ"がきちんと各会議室を管理する仕組みが整備されていたので、下らない落書きが跋扈するような事態にはならないという安心感もあった。
赤文字表記のニフティサーブ特有の語句の解説については wiki 等をご参照下さい

1ヶ月ほど"ROM"状態を続けた後、意を決して書き込んでみた。
全員が関心を持っているはずの"桐Ver.4"をネタにした内容で、完全にウケ狙いであった。
無反応だった。更に二三度書き込んでみた。無反応だった。まったく受けない。焦った。(;`ー´)
「ちょっと肩に力が入り過ぎていたかもしれない」と思い直し、自信を持っていた小作品の紹介を出してみたら、ようやく"RES(コメント)"がぼちぼちと付くようになり、気軽に参加出来るようになった。
しかし、それ以降は書き込みをせず、また"ROM"生活となった。

当初は、本名をもじって"JIN"と名乗っていた。しかし、どうみてもインパクトがないのが明白。
とりあえずは"ハンドルネーム"を何とかしなければならない、という焦燥感があった。今のままでは大勢の参加者の一人として埋没してしまう恐れがあった。
・・・いやしかし、今から思うと本末転倒。何とアホな考えをしていたのであろうか。( ´ー`)まったく。

パソコン通信は、自分とは別の人格を作って"仮想社会"で自由にふるまえるという魅力もある。
本名で参加している人は少数派で、ほとんどの参加者が思い思いの"ハンドルネーム"を名乗っていた。
その中で特に目立っていたのが、やはりどう見ても本名ではない"立花 薫"氏。最も活発に活動し、勉強家で中々の論客である割に気さくな面もあり、「お友達になりたいな」と思わせる存在であった。

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