ほろ苦いデビュー

「Access 2.0 データベース作成のコツ」が、PCライターとしての本当の自分のデビュー作であると思っている。

"桐"とパソコン通信とニフティ会議室の縁のおかげで、PCライターチームに何度か参加させてもらった。
声をかけてもらった浦秀樹氏には、生涯忘れられないほどの恩義を今でも感じている。
一般人には望んでも得られない、不特定多数向けの出版物の執筆者として名を連ねる事が出来たのである。
それは自費出版などではない、フツーに書店に並ぶ単行本としてである。自分の人生の中でも最高の快挙だった。
初めて書店に平積みされた"100%活用法"を眼にした時の感激は今でも忘れられない。そして、予想していたとはいえ、全く売れなかったという辛い事実も・・・

その経緯はくどくどと何度も書いているが、不本意なカタチであった。三度携わった単行本のテーマは"桐"と"DBPro"。既に熱意はおろか関心さえもなくしかけていたソフトウエア製品だった。
当時の自分は完全に"Microsoft Access"に心を奪われていたのである。ライターとしても、チームのメンバーの一人としてではなく、自分自身の"作品"に取り組む事が出来るチャンスを密かに熱望していた。

職場の基幹情報管理システムも、一時は検討しかけた"DBPro"を早々に見限り、本格的に"Access 2.0"に移行しようと計画している段階にあった。
しかし、小企業の基幹システムゆえ、ある日を境に一気にリニューアルとはいかないのである。
何しろ専属技術者などいるわけがなく、その作業計画も作業そのものも自分自身で進めるしかなかったのである。もちろん、会社の通常業務をこなしながらである。
"Access"は、それまで経験した事のない開発ツールであり、当然その作業は試行錯誤の連続となり、膨大な時間と精神的エネルギーがかかる。とにかく解説本とニフティの"Access"会議室が頼りだった。
解説本とはいっても、実に沢山出版されていたが、そのほとんどが取るに足りない入門書であり、業務システム開発には何の役にも立たない"ゴミ本"ばかりだった。有用な解説本は、ほんの数冊だけだった。

"桐"で築き上げたシステムを、それまでまったく未体験だったソフトウエアを使用してゼロから作り直すのは想像以上に困難だった。"不眠不休"はもちろん言い過ぎだが、それに近い日々が続いていた。
その生活は一年近く続いた。なぜそんな献身的な行為が出来たのかというと、答えはカンタンである。「使命感」。
何と言っても、それを命じたのは自分自身だったからなのだ。自分で決めたので最初からモチベーションが違う。

そして、転機が訪れた。相変わらず"桐ゴミ箱"会議室には入り浸っていたのだが、意外な人物から非公式に声がかかったのである。つまり会議室ではなくメールで。

その人物は、浦秀樹氏と並ぶ大先輩であった「佐田守弘」氏。率直に言って、"桐"の世界では、我々とは一線を画す一流のPCライターだった。と、少なくとも自分は尊敬していた。
エーアイ出版から"桐"のみならず"松"の「コンプリートガイド」と称される素晴らしい解説書等を多数執筆されていて、大げさに云えば雲の上の存在に近い方であった。
ただ、ニフティのオフライン宴会では何度か同席していて、いくらか気心が知れた間柄でもあった。
"意外"という理由は、佐田氏の思考が"桐"の世界から一歩も踏み出せていないと感じていたためである。
もちろん"Access"にも少なからぬ関心を抱いてはいたが、"桐"の発想から抜けられないため、苦戦されていた。

何でそんな事が分かるのかというと、それはニフティ会議室での氏の発言内容から、一目瞭然であった。

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さて。佐田先生からある日突然唐突にご相談があった。※あえてここでは「先生」とする。
「エーアイ出版から"Access 2.0"の解説本を出版する事になったので、一緒にやらないか。」というストレートな申し入れだった。驚きはあったが、断る理由などあるはずがない。
自分の会社のシステム改修計画が佳境に入ってはいたが、どうしても超えられない壁がいくつもあり、ひとり悩んでいた時期でもあった。つまみ食いではなく、一からきちんと勉強し直さないとまずいと焦ってもいた。

解説本を執筆するとなると、それは願ったりかなったりである。付け焼刃の知識では到底歯が立たないのは明白。
自分を徹底的に追い込むのにこれ以上のハナシはなかったので快諾した。
つまり、あくまで自分自身のレベル向上のためであり、佐田先生から有益なアドバイスを得られるとはまったく期待していなかった。それと、版元が「エーアイ出版」というのも自分にとっては最高に魅力的な条件でもあった。

"Access"に関して氏がどの程度の理解レベルであったかは把握していたし、「そんなんで良く引き受けましたね」と内心呆れていたほどなので、自分へのお誘いも純粋な好意からとはとても思えなかった。
特に根拠はないが、それは本能的な"動物的カン"ってヤツや。そしてそれは見事に的中した。

以下次号。

ほろ苦いデビュー その2 「エーアイ出版」の事

今はなき「エーアイ出版」は、自分にとって特別な存在だった。PCライターになるなら、自分の"作品"は「エーアイ出版」から出せればいいんだけどなぁ、と漠然とした希望をずっと抱いていた。

1994年当時は、"Windows 3.1"の普及が加速しつつあり、格段の進化を遂げた"Windows95"登場への期待がいやがうえにも高まっていた。"パソコン"もフツーの言葉として一般的に認知されるようになっていた。
長い間、少なくとも個人ユースでは、事実上"NEC"一社に牛耳られていた日本のパソコン界もようやく自由化の時代を迎え、最新のテクノロジーの恩恵を誰もが適切な価格水準で手に入れる事が出来るようになっていた。

その流れに伴い、パソコン関連の雑誌や参考書も定期・季刊・不定期を含め膨大な量が出版されていた。
その中で、月刊誌"98マガジン"を刊行していた「エーアイ出版」だけがなぜ自分にとって特別な存在だったのか。

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マニアックな"The Basic"の「技術評論社」や、総花的な"アスキー"や、提灯記事満載の"Oh!"シリーズの「ソフトバンク」等が百花繚乱の中で、"98マガジン"は最もバランスのとれた情報誌だと評価していたのである。
誌名の通り、"NEC PC98"シリーズ関連の記事に特化していたにもかかわらず、同種の雑誌と比べてメーカーの宣伝臭がそれほど感じられず、何よりも"管理工学研究所"のソフトウエア製品である"松"と"桐"の実践的な活用法記事を積極的に掲載し、単行本の出版も精力的に続けていた唯一の月刊誌だった。
表紙や紙面のレイアウトなども垢抜けて洗練されていると感じていた。

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まぁ、この"Access 2.0 データベース作成のコツ"については、意図が良く分からないものではあったが、これはその他のソフトウエア製品の解説書である"コツ"シリーズで統一されていたデザインである、とだけ記しておく。
佐田守弘先生は、エーアイ出版から多数の記事や単行本を執筆されていて、そのどれもが、先生の代表作であった"コンプリートガイド"シリーズと呼ばれる通りの名に恥じない完璧な内容であった。無条件で尊敬していた。

そんな雲の上の大先輩から共著の誘いを受ければ、あまりの光栄に直立不動で最敬礼・・・とはならなかった。
ニフティのオフライン宴会のおかげで、佐田先生の人柄をある程度知る事が出来ていたのと、"Access"に関しては完全に主従逆転となる事が明白だったためである。
エーアイ出版から、「今後は"Access"しか扱わない。」とのプレッシャーをかけられていた事も知っていた。

お誘いに二つ返事で応諾して、電話で簡単な打ち合わせをしたのだが、まったく予想通りの内容だった。佐田先生が"入門編"、こちらが応用編とサンプルプログラムの作成。
原稿のボリュームは半々。「で、印税の比率は ?」と、さすがにその当時は質問する事を控えた、などとつまらぬ遠慮は抜きにしてストレートに聞いてみると「6対4」との答えであった。もちろん佐田先生が6。
※明確な記憶はないが、「5対5」でも「7対3」でもなかったのはたしかなので、消去法で「6対4」のはず・・・
自分としては、カネの事はほとんど問題にしていなかったので、即答でOKした。「エーアイ出版」から出せるのだし、とにもかくにも"Access"の原稿が書きたくてたまらなかったのである。

方針が決まれば後は書くだけ、と怒涛のように原稿を量産開始。同時に、案の定センセイとは毎日のように基本知識についての質疑応答が始まった。もちろん答えるのはこっちや。( ´ー`)
どんな経緯であれ、誘ってもらった恩義は間違いなくあるのだ。可能な限り懇切丁寧に解説を続けた。
・・・といったって、こっちだって半人前だったのだから、今だからいえる笑い話ではある。

少し経って、センセイからうれしいお話があった。「エーアイ出版が我々に懇親会を開いてくれる事になった。」
飛び上がるほど嬉しかったので、快諾してその週の週末夕刻に、東京にあるエーアイ出版社を訪問した。

イメージしていた通り、立派なビルの数フロアを専有し、良く整理整頓された素晴らしいオフィスの見学をさせてもらい、担当編集者の紹介ももちろんあり、いかにも"キャリアウーマン"というイメージの田中さん他一名。
田中さんからは、事前に提出してあったサンプルプログラムについても非常に高い評価を受けた。
話の途中で、わざわざ階下に降りて来られた社長からも紳士的な激励をされた事にも感銘を受けた。
「おぉ、期待されてるのだ!!」ちょっと、足元がふわふわするような高揚した気分であった。

その後、センセイとともに、エーアイ出版から担当者二名によって接待していただくのでオフィスを後にした。
タクシーに四名で乗り込み、都内の高級イタリアンレストランでコース料理をいただく事になった。
ふだん居酒屋やラーメン屋などしか経験のない、緊張する自分に田中さんはうまく話題をリードしてくれた。
とても知的でカッコよく、気配りの出来る素敵な女性だった。たぶん30代半ばの感じ。
ビールとワインでほろ酔いの良い気分で「この人独身なのかなぁ・・・」などとぼんやりと考えていたら・・・

次第に田中さんが会話の途中から眉をひそめる回数が多くなっていった。
その原因は佐田センセイだった。タクシー車内からレストランの席に着くまでずっと饒舌で、アルコールが体内に入ってからは一段とボルテージが上がり、ついにはワインについてのウンチクが延々と開始された。
その場の誰もセンセイのお話に関心を持っていない事にまるで気づかず、独演会が続いた。もちろん自分もイヤだったが止める事は出来なかった。編集社員二名もしぶしぶながら相槌をうっていた。

入店後、たぶん一時間ほど経った頃だった。際限なく続くセンセイのうんちく話はとどまることを知らず、ついに田中女史からストップがかかった。
「佐田さん、もういい加減にして下さい。私たちはそんな話をするために来たのではないのです。」
強烈なストレートパンチだった。センセイは別人のようにおとなしくなり、その後少しして退店し、解散した。
別れ際には、田中さんは何事もなかったように笑顔で「これからもよろしくお願いします。」と挨拶してくれた。
いやぁ、こうゆうのを今風には"男前"というんでしょうな。

センセイは、おそらく自分を二次会に誘いたかったはずだが、そのような雰囲気にはならず完全に散開した。

とにかく、素晴らしく有意義な体験だった。(^。^)

ほろ苦いデビュー その3 駆け出しライターの生活

一連の記事は、自分のPCライター人生(わずか6年間ですが)を振り返ってみて、決して平坦な道ではなかったという事実を綴るのに避けては通れない出来事なので詳細な経緯を書いている。
すなわち、他者への個人攻撃の意図などまったくないので以降はイニシャル表記とする事にします。

さて。それまで三冊の共同執筆メンバーの一員として原稿を書いていたのだが、出版社から一度も校正の指摘がなかった(注1)ので、秘かに自信を持っていた。ニフティ会議室のおかげで無意識に文章書きの訓練が出来ていたと。
もちろん、原稿提出前に自分自身で徹底的に校正作業をしていたので、少なくとも誤字脱字の類などは一切なく、文章そのものも良く出来ていたのだと鼻を高くしていたくらいである。( ´ー`)

"Access 2.0 データベース作成のコツ"は、実質的なデビュー作と認識していたので、いやがうえにも気合が入り、怒涛の勢いで書き上げた。手がけてから約一ヶ月、以前にも増して自己校正を丹念に行い、サンプルプログラムとともにエーアイ出版に原稿を提出した。編集者も驚いていた。以前にも増して鼻高々の自信満々であった。
原稿なのだから当然締め切りが存在するが、指定された期日よりはるかに速く仕上げたのである。
そんな事が可能だったのは、もちろん"みなぎるようなモチベーション"があったから。(´∀`)
"Access"の勉強も、大げさに云えば毎日が「眼から鱗」の連続であり、楽しくて仕方がなかった事も大きいな。
共同執筆のカタチではあったが、明確に役割分担が決まっていたので、遅々として進まないS氏の進捗などまったく眼中になく、ブルドーザー式で作業を進めた結果である。

当時も今も自分は会社員である。平日の日中はまず原稿など書けない。休日に集中して書けば良いようなものだが、それで済むような半端な量ではない。
サンプルプログラムにしても、それまでのようなお気楽サンプルではなく、一応単体のアプリケーションとしてきちんと動作する事を検証しなければならない。
何しろ"Access"の解説書の執筆者でありながら、手探りで勉強中というレベル(注2)だった事もあり、それだけで相当な時間を費やしたし、"桐"の時とは全然異なる重い責任感とプレッシャーを感じていた。

それでなくても、何度も書いている通り当時は自社の基幹システムの大規模改修中であり、そちらにも相当なエネルギーが必要(本末転倒な表現だが)な状況だったのである。

自分の場合、原稿の量は実際に出版される記事の二倍から三倍程度を書いていた。そこから余計な部分をそぎ落とし、内容の取捨選択しながら所定のページ数になるよう仕上げるという方法を採っていた。
本書の場合、自分の分担は約200ページだったので少なくとも500ページは書いたことになる。
一見大変な量だが、小説や論文などとは異なり、かなり図版が挿入されるので実質文章としてはその半分程度である。とはいえ、何しろ自分自身が入門レベルに毛の生えた程度なので、用語の正確さや統一等にも気を配りつつ、誤った説明文を書かないように確認作業を特に入念にと、やたら時間がかかることに変わりはない。1ページ書くのに数日間費やす事など珍しくもなかった。

さて、休日だけでは足りないのでどうすれば良いかというと答えはひとつである。
睡眠時間を減らすしかない
何しろ本業が前述のような状況なので、原稿書きのために休暇を取るという荒業も使えない。
では、平日の何時頃書けば効率が良いかといえば、悩むまでもなく明白。それは早朝である。
一見夜に書けば良さそうだが、それをやると作業に熱中した結果、徹夜が当たり前という状況に陥る事が容易に想定され、そうなると本業に悪影響が出るのは確実。それは絶対に避けなければならない。

さて、それでは何時書くか。一日に2時間程度ではまったく足りない。4時間程度は必要である。当時は(今もだが)、7時半までに家を出る生活だったので、作業量を勘案すれば 3時までには起床しなければならない。逆算すると、10時までには寝床に入る、のではなく睡眠に入る必要がある。寝付きの良くない性格なので9時頃には寝床に入る事になる。
いくら睡眠時間を削るといっても、5時間程度は確保しなければという前提での計画である。(注3)
・・・と書けばカンタンそうだが、それまでは完全に夜型であり、連日午前2時頃まで眠りにつく事がないという生活パターンだったので、それを逆転させるのはけっこう苦労した。
けっきょく二週間くらい経ってからようやく早朝パターンがスムーズに身についたのだが、とにかく最初は「しんどかった」の一言。(。-ω-)zzz

さて、実は今回のシリーズの核心はここから以降なのだが、ページが尽きてしまったので、以下次号。( ´ー`)

(注1)
実際には細部を校正されていたかもしれないが、記憶ではそうである。
(注2)
エーアイ出版の担当者からは「執筆者が勉強しながら解説書を手がける事など日常茶飯事だから、気にしなくて良い」と激励されていたので「そんなんでエエんか」と感じつつ、特に罪悪感を感じずに済んでいた。(;`ー´)
(注3)
記事を書いていて、今頃気づいたのだが、午前2時頃まで起きていたという事は、実際には睡眠時間はほとんど変わっていない。シフトしていただけである。だから体力的には問題がなかったのだな・・・

ほろ苦いデビュー その4 危機

今回はシリアスな内容につき、本文にフェイスマークは一切使用しないのでご了承下さい。( ´ー`)

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「Access2.0 データベース作成のコツ」冒頭の"はじめに"。
これを書いたのは共同執筆者であるS氏。お見事。さすがにスキがなく格調高い優れた文章である。
しかし、実はこれを書くのは自分の役目だったのだ。なぜこうなったのか・・・

原稿を提出してから約二週間後、フツーの生活リズムを取り戻せて安心していたが、突然最大の危機が訪れた。
休日の昼下がり。自宅のファクシミリに 3ページ分の原稿が送信されて来た。担当編集者による校正である。
当時は文書イメージを容易に作成・交換出来るPDF形式などが存在していなかったので、手書きで校正した結果をスピーディーに送る手段としては、とにかくファクシミリになるのであった。
それを承知していたので、パーソナルファクシミリを自宅に設置してあったのである。

その内容は惨憺たるものだった。文章の大半が赤入れ(線引と訂正文字)されていて、仮にそれらの指摘部分を削除したとしたら、ほとんど 原型をとどめなくなる ほどの割合だった。
"はじめに"の他、サンプルアプリケーションの冒頭 2ページ文も含まれていた。すべてズタズタである。
要するに「全部書き直せ」と突き返されたようなものだ。しかしいかに熱意があろうと、全部書き直しなど絶対に不可能である。締め切り期限(たしか契約から三ヶ月)も変わらない。

自信を持って送り出していただけに、その衝撃は大変なもので、ショックの余りその後数日間はまともに口がきけないほど打ちのめされていた。
自分の文章作成能力は、他では通用してもエーアイ出版では通用しないと宣告された事になる。
共同執筆とはいえ、それまで三冊も解説書が出版されていて、校正など一度もされなかったのである。自信を持つなという方がムリというものである。それだけに二倍の衝撃となって襲って来た。

そんな中、数日間悩んで、少し心が落ち着いてから思い返してみた。
「良く考えてみれば、まったくのシロートライターの原稿が校正されない方が不自然ではないか。」
たしかにそうだ。秘かに手直しされていたのかもしれないとひらめき、手元に残してある原稿と三冊の単行本の内容をチェックしてみた。結果は記憶通り何も手直しはされていない。原稿がそのまま出版物となっていた。

エーアイ出版だけがきちんと原稿を精査して校正しているわけで、その姿勢はさすがだと改めて感心した。いや、それでも出版社たるもの、原稿の校正作業を省略して良いわけがないはずなので、エーアイ出版は当然の事を行っているだけなのだ。とはいえ、自分の原稿が不合格のダメ出しされた事実も厳然として存在する・・・

しかし途方に暮れてばかりもいられない。幸いな事にこの世界の大先輩がパートナーなのだ。
ご相談してみようではないかと、とりあえずメールで経緯を報告したらS氏から深夜に電話がかかってきた。
そして、かんたんな事情説明のやりとりの後で驚くべき提案をされた。

「エーアイからも"難しそう"と言ってきているし、そんなに自信がないなら、原稿をもらえば後は引き継いで私がやるよ。安心して任せてくれていいよ。」

そんな反応は想定外。返す言葉がなかった。文章の書き方など、出版社からの校正指示についてどのように対処すれば良いかのアドバイスを期待していたのである。不可解。結局不安が増幅されただけだった。
実際、投げ出してしまいたい気もないではなかったので、その場はあいまいな返事をしておいて眠りについた。

そして翌日。「やはり正攻法に限る」と意を決してエーアイ出版の田中女史に電話した。これまた驚愕となった。
田中さんは自分からの連絡を待っていたらしく「やっと電話をくれましたね。」と優しい口調だった。校正結果については「新人の場合は特に入念にチェックを入れるので、訂正だらけになるのが当たり前。」と事もなげの回答。
文章力そのものは特に問題ないが「理系の本なのだから"主観の排除"が最重要。」と教えてくれた。云われてみれば、たしかに赤入れされていた部分は"思い入れ・憶測・推測・自分の好み"に該当する部分がほとんどだった。
最初の自分の"作品"なので必要以上に肩に力が入っていたわけである。
やっぱり相談して良かった。一気に気が楽になった。

それでは、どこが"驚愕"なのかというのは上記の会話の後である。一週間後に再提出する事になり、感謝の意を述べて電話を置く前に S氏とのやり取りを報告したら田中さんの表情が一変した。
※「電話やんけ!?」って・・・いや、口調がまったく変わったので分かるのです。

「やっぱりそんな事を!! また!!」

「ん ? "また"って何ですか ?」呆気にとられて聞いてみると「以前にも同じ事があり、これで三度目になる。共著でスタートしても途中からパートナーがリタイアして、最後は S氏単独の作品として出版されたんですよ。」
「そ、そんな事があったんですか・・・」
「だいいち、S氏に或間さんの能力が不足しているなどと一言も云ってませんし!!」

いやはや、何とコメントすれば良いのかと返す言葉がなかったが、田中さんから「絶対あきらめないで、頑張って仕上げて下さいね。」と嬉しい激励の言葉をいただいた。
田中さんのアドバイスのおかげで、コツが少し分かり、再び怒涛の勢いで原稿を全て洗い直して予定通り一週間後に提出すると翌日電話連絡があった。
「合格です。もうほとんど直すところはありません。一度でここまで進歩する人も珍しいですよ。」

ほろ苦いデビュー その5 エピローグ

「Access2.0 データベース作成のコツ」は見事スマッシュヒットとなった。

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すなわち「増刷」されたのだ。初版発売後三ヶ月後に。世に出される数ある単行本のほとんどは、奥付の赤枠の部分が存在しない事は書店で調べればすぐに分かる事実。
出版社から、増刷版が出回る前に既に明細書が送付されて来ていた。その数は3,000部。

快挙である。

エーアイ出版からは、発売前に著者への「献本」として五冊いただいていた。
それはもちろん初版であり、増刷の際には二冊いただける。今回の写真はその時のものである。勲章や。(´∀`)
世の中まだまだバブル時代であり、"Windows95"効果のため、当時はすごいパソコンブームで、おびただしい数の関連書籍が出版されていたが、編集者から「増刷に至るのはその 5%にも満たない(!!)」と聞かされていた。(゚д゚)
いくら数が多くてもそのほとんどが"ゴミ本"だったので、自分でも「そんなもんやろなぁ」とも感じていた。

率直にいって、少し運が良ければライターになる事は不可能ではない。
能力と環境とタイミングが合えば。それは自分の例からも明らかである。しかし、それとヒット作品とは別である。
「増刷」とは、書店から出版社(正確には卸会社)に対して追加注文があったという事実の証明である。

それは市場(一般読者)に受け入れられたという証であり、極論すれば、いかに熱意を持って取り組んだのだとしても、増刷されないのであれば執筆者と出版社の自己満足に終わってしまっただけという事になる。
※製品の販促だけが目的などという場合もあるが、それは例外である。

初版で終わってしまったならば、出版社としては失敗商品であり、度重なれば経営が成り立たなくなる。
執筆者にとっても「自分の作品は本当に価値があったのか ?」と自問自答するしかないのである。ヒット作品すなわち増刷を勝ち取るには、世の中の多くの人が求めているタイムリーなものであり、内容的にはさらにそれを少し上回っていなければならない。(これは個人的な持論に過ぎないが)
数ある"ゴミ本"の一種だったはずなのに素晴らしい売れ行きを誇っていたインプレス社の「はじめての・・・」シリーズも見事だった。当時の水準では紙面構成が図抜けていた。企画とデザイン力の勝利だったと思っている。

しかし、大半の書籍はやはり内容勝負である。トレンドに沿って、しかも半歩先をゆくようなものでなければヒット作とはなりえない。佐田 守弘氏のヒット作であった"松・桐"の「コンプリートガイド」シリーズも一見"ゴミ本"になりかねない企画にも関わらず、上っ面だけの説明に終わる事なく適度に掘り下げた、内容の濃いものだった。
もうひとりの大先輩である、浦秀樹氏の「桐の販売管理システム」の本も良く売れたと本人から聞かされていた。
やはり、大半の"ゴミ本"とはまったく内容の異なる、読者が本当に求めていたはずの実務に役立つ内容だった。

もちろん、書籍の性格によっては発行部数そのものではなく、世に出る事自体に価値があるという場合も少なくない。数十年後に高評価を獲得する事例など珍しくもない事も誰もが知っているのだが、パソコンソフトの解説本の場合はまったくそのような例には当てはまらない"生モノ"であるのも当たり前である。

1995年当時、パソコンソフトの解説書で"Word"や"Excel"と並んで"Access"がメインストリームになる事くらい、誰にでも分かっていた。その理由は、覇者であったマイクロソフト社が強力にプッシュする製品のひとつだったから。
それゆえ、すごい数の解説本が次から次へと出て来て、書店の棚にズラリと並んでいた。
新米ライターの或間氏は、暇さえあれば足しげく大阪梅田の「紀伊の国屋書店」に通い、その度にほぼすべての本をチェックしつつ「たしかに価値あるのは5%以下やな・・・」とひとりうそぶいていた。
同時に、自分の本が売れる度にそのお客様の背後から秘かに最敬礼もしていたのだぜ。(;`ー´)

自分のライターとしてのコンセプトは「初心者から中級者へのステップアップに役立つガイド」であった。そのような目的で書かれた他社の本はないではなかったが、ごくわずかであり、しかもそのほとんどが零細出版社だった。
平均レベルの高い書籍や雑誌を多数出版していた、メジャーなエーアイ出版からデビュー出来た自分は、本当に運が良かったのだと今でも思っている。
「Access2.0 データベース作成のコツ」の前半部は、取るに足りない"ゴミ本"に等しい内容であり、それが今でも残念なのではあるが、しかし S氏の推薦なしに"Access"本のライターになれたかどうか定かではないので、そこはやはり妥協して納得するしかないし、経緯はどうあれ、S氏への感謝の気持ちは今も変わらないのも事実。

ともあれ、営利企業である出版社が、増刷を期待出来るようなライターを常に求めている事など、当時も今も自明の理である。過去にどれほど実績があろうと「これから」売れなければ価値はないとみなされる。

田中さんからは既に増刷前から「Access95の単行本もよろしくね。」と確約されていた。もちろん単独執筆で。
S氏と自分には実際にはそれほど年齢に大きな開きはないのだが、"新世代のホープ"として迎えられたのである。
優しく暖かく接してもらえたのは、今から思えば当たり前であったのだな・・・

とにかく事実上、ここから自分のライター人生はスタートしたのだ。ヽ(*´∀`)ノ

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